| HIV感染者の人権侵害をめぐる訴訟事例 弁護士 杉山真一 (厚生労働省科学研究班報告から) |
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1. はじめに
本研究は、HIV感染者の人権侵害をめぐる訴訟事例の分析・検討を目的とする.日本の訴訟事例は、諸外国とりわけ米国のそれと比べて数が少ないが、数が少ないということは必ずしも人権問題が少ないということを意味するわけではない*1。
日本の訴訟事例の事案を紹介・分析することは、日本におけるHIV感染者の人権侵害の特徴と、侵害を生み出す社会構造を明らかにする一助となろう。*1清水勉「日本における現状・訴訟の動き」ジュリスト1035号14頁は、訴訟等が少ないことについて「当事者が問題提起できないほど追い詰められている」という認識を示す。
また、坂井眞「保健医療福祉における「人権」とは」公衆衛生62巻6号403頁は、「一般的にいえば、はエイズについてハンセン病の場合と同じような事態が体制として生じるとは考えがたい」としつつ「社会の根底に人権感覚が根付かない限り、ある意味ではより隠微な形で同様な人権侵害が生じる恐れが存在するといえる」と指摘する。
なお、事例の収集が困難な事情として、米国と異なり、日本の司法制度においては裁判例・和解例のデータベースが不備であることも挙げられる。2. 検討の枠組
訴訟事例を紹介・分析するにあたっては、憲法の人権論における合意性判定基準の議論を参考にして、次の点に留意することが望ましい。
(1)問題となっている権利利益は誰の、いかなる権利利益か。
〈2)制約しているのは誰か(公的権力か、私人か)。
(3)制約を正当化する権利、利益または政策目的は何か。
(4)両者を比較して、やむをえない合理的な制約といえるか。適正な手続の保障がなされているか。
(5)上記のような問題をうむ社会構造は何か。3. 日本における訴訟事例
(1)日本における訴訟事例には、米国の場合*2とは異なり、公権力による公衆衛生的規制(典型的には、旧エイズ予防法や感染症対策新法およびこれらの法律に基づく政策〉が争われたものは見あたらない。
(2)私企業における労働契約関係において、HIV抗体検査をめぐるプライバシー権の侵害、HIV抗体陽性を理由とする解雇が違法とされた事例(いずれも原告勝訴)が2件ある。
事例1(東京地判平成7年3月30日判例時報1529号42頁)
派遣先会社が派遣元会社に対して派遣社員のHIV感染の事実を告げた行為が、派遣社員のプライバシー侵害にあたるとして不法行為を認めた事例である。また会社によるHIV感染の告知と、HIV感染を理由とする解雇が、いずれも違法とされた。
事例2も同様であるが、HIV感染を理由とする解雇については、日本の終身雇用制において形成された解雇権濫用法理の適用が正面に出ており、HIV感染を理由とする 差別〈障害者差別禁止法の適用)が問題となる米国とは異なる。日本においても構造改革が進み、終身雇用制は崩壊しつつあるとの指摘もあり、そうなると解雇権濫用法理ではなく、HIV感染を理由とする差別が正面から問題となる可能性がある。その意味でも、日本においても差別禁止立法の早期制定が必要である。*2米国の事例については、江橋「エイズ患者の人権−アメリカの経験に学ぶ」法律時報60巻5号46頁、AIDS Litigation Prdect,Department of Health and Human Services,1990.
米国では、HIV感染者について、強制隔離〈居住移転の自由)、ゲイ男性の集団形成の制限(集会結社の自由)、検査・報告強制(プライバシー権)、公権力による雇用差別(平等権)、公立学校からの追放(教育を受ける権利)、出入国規制(居住移転の自由)などが現実に問題となった。
事例2(千葉地判平成12年6月12日)
被告会社は、日系外国人である労働者に対してのみ、入社検診時に、当事者の同意を得ないでHIV抗体検査を行っていた.被告病院は、被告会社の依頼で、無断検査であることを知りながら、会社から指示のあった労働者についてのみ同検査を実施していた。
会社は、原告労働者に対し、同無断検査でHIV抗体陽性が判明したことを告げ、解雇した。同無断検査について被告会社および病院の不法行為責任(プライバシー権の侵害)が、解雇について解雇権濫用法理(HIV抗体陽性を理由とする正当な理由のない解雇)を適用し、違法(無効)であると判断した。
事例1と違い、継続的計画的に、外国人労働者に対してのみ無断検査を実施し、病院はそれと知りつつ検査を引きうけていた事例である。同病院は、当該企業以外からも同様の検査を受けていた形跡であり、本事件は氷山の一角である可能性が高い。入社時一斉検診など会社が従業員全員に対して健康診断を実施することは、日本企業でごく当たり前に行われ、一定の場合には労働者保護制度上求められているところでもあるが、本事件はこのような⊥斉検診のあり方、情報管理のあり方 〈個人情報である検診結果が事実上会社に開示される結果となっていないか)等を根本的に見直す必要性を示唆するものである。
また事例1と異なり、当該労働者は会社から知らされる前からHIV感染の事実を知っていた。このことがプライバシー侵害による精神的損害の程度(慰謝料の額)に影響するか否か議論の分かれるところであり、本判決はこれを肯定して本人がHIV感染を知らなかった場合より損害は少なくなるとの見解を示した.これに対しては批判が可能である。しかし、実際に認めた慰謝料は事例1の場合より高額であり、プライバシー侵害の場合に従来認められてきた損害額(慰謝料額)から見ても高額である。このことから本判決は、プライバシー権そのもの価値については、従前の裁判例よりも重きをおいたものとの評価が可能である。(3)警視庁の採用手続におけるHIV抗体無断検査およびHIV抗体陽性を理由とする解雇の違法性が問題とされている事例(係属中)がある。
事例3(東京地裁平成12年(ワ)第12133号事件)
警視庁警察官として任用手続きの終了したものに対し、同意を得ないでHIV抗体検査を行い(検査の主体が警視庁か、警察病院かも問題である〉、免職処分をしたとして原告か
ら国家賠償請求訴訟が起された事実。
雇用者が公権力の主体である点を除いて、事例1、2と類似した構造の事案である。警察官の任用手続き自体がベールに包まれており、本件を通じて情報の開示が進むことが必要である。さらに、その他の公務員採用手続きおいて、HIV抗体検査が無断で実施されていないかどうか、実態を明らかにする必要がある。
(4)大学歯学部の学生が同大学医学部付属病院を受診中、病院の医師が歯学部教授に対して学生のHIV感染症に関する情報を開示したことが診療契約上の守秘義務に違反しないとされた事例
事例4(東京地裁平成11年2月17日判決 判例時報1697号73頁)
判決は、一般論として「医療従事者は患者に対し、診療契約上の付随義務として、診療上知り得た患者の秘密を正当な理由なく第3者に漏らしてはならない義務を負う」「HIV感染者の病状、特に免疫機能に関する情報は秘密性が非常に高いということができ」「診療上相当高度な守秘義務を負う」と判示している。しかし、本事実のもとでは、特に動機の正当性(原告の学生生活を支援する目的)を重視して、正当な理由のある開示であると判断した。しかしながら、主治医でない医師から、親族関係もない所属大学の教授に対し、カルテの内容が開示されたという事案であることからすると、本判決は正当でないとの批判には相当な説得力がある*3。本事案に見られるような、バターナリズムに疑いすら持たない大学の体質は改善される必要があり、本判決は正当な動機に免じて被告らを例外的に救済した判決とみるべきであろう.今後同様の行動が許されるという趣旨に理解すべきではあるまい。
(5)写真週刊誌がHIV感染者の写真と過去の経歴を掲載したことについて、報道内容の公共性・公益性・真実性による違法性阻却が認められないとして不法行為を認めた事例
事例5(大阪地判平成元年12月27日判例時報1341頁)
出版社と、HIV感染者の遺族との間で、HIV感染者(死亡)の名拳権の侵害が問題とされた事例である。
まず、死者の名誉保護について、本判決は従前の裁判例と同様に、いわゆる間接保護説、すなわち死者の人格権自体は認めず、死者の名拳毀損を遺族固有の人格権侵害と捉え、間接的に死者の人格的価値の保護を図ろうとする立場を採用した*4。つまり侵害されたのは、遭族の人格権(遺族の死者に対する敬愛追慕の情)であるという立場である。
次に、報道内容の公共性・公益性・真実性による違法性阻却の成否について、従前の最高裁判例(最一判昭41・6・23民集20・5・1118判例時報453号29貢)の枠組み「名誉毀損については、当該行為が公共の利害に関する事実に係り、もっぱら 公益を図る目的に出た場合において、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、その行為は、違法性を欠いて、不法行為にならないものというべきである。」としを応用し、違法性阻却を否定したものである。
このように本判決は、従前裁判例等により示された規範を踏襲したものである。このことは、従前から示されていた法規範から違法とされること可能性が高い報道であるにもかかわらず、マスメディアは、あえて事後的に違法とされる危険を冒しでも、HIV感染者ら個人の人権を侵害する行動をとるという現実である.なお、本件の原告らは写真週刊誌「フライデイ」の発行元である光文社と同誌編集人に対して、本件と同様の請求をしており(大阪地裁昭62(ワ)8721号、慰籍料等請求事件)、本判決と同日で合計100万円の損害賠償を認める判決を得ている。*3 原告は、そのホームページで本訴訟の経過等を公開している。
http://www.asahi-net.or.jp/~xb3y-nkme/
*4 間接保護説に立つ学説として、幾代「死者の名誉を毀損する言説と不法行為責任」法政論集88・201、武田・名拳・プライバシー侵害に対する民事責任の研究91、川添「死者の名答毀損と違法性」。現代民事裁判の課題F437など。
間接保護説にたつ裁判例としては、裁判例としては、@東京地判昭52・7・19判例時報857号65真(「落日燃ゆ」事件一審判決)、東京高判昭54・3・14判例時報918号21頁(@の控訴審判決)、B静岡地判昭56・7・17判例時報1011号36頁、C大阪地堺支判昭58・3・23判例時報1071号33頁〈実録小説「密告」事件判決)、D東京地判昭58・5・26判例時報1094号78頁など4. まとめ
我が国では、HIV感染者に対する公衆衛生的規制が正面から問われることは、現在のところ少ない.しかしながら、HIV感染者数の動向などにより、乱暴な公衆衛生規制がなされたときは、早急に司法的救済が図られるよう、法制度等の整備が必要である。
また従来の訴訟事例からは、終身雇用制、公務員関係、マスメディアによる集中攻撃といった日本の社会構造に特有な現象の中で、隠微なかたちで人権侵害が生じていることがわかる。HIV感染者らの人権を守るためには、社会構造をどう変えていくかという難問が控えていることがわかる。
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